旅というものは、時間の中に純粋に身を委ねるものだ。 福永武彦 (小説家・詩人、1918~1979)

STORY | 歴史にひたる、日本のリゾート。

「ねぇ、本当に大丈夫? 高かったんじゃないの?」
「もう、そのセリフ何回目?」
きっと娘は、私との“母娘旅行”に、ずいぶん懐を痛めたに違いない。
伊豆長岡駅で伊豆箱根鉄道を降り、うららかな田園風景の中を車で走って約5分。
品のある門構えを通り抜け、数寄屋造りの立派な宿に迎えられて
私の心配は、さらに膨らむ。
「……ねぇ、本当に……」
しかめ面の娘に肘で小突かれて、途中まで出た言葉を飲み込む。

半年前に親友が結婚してからしばらく「独身宣言」なんて言っていた娘だったが、
実はいい人がいたらしく、近々結婚しようという話になったのだとか。
もちろん母としては大賛成なのだけど、問題は頑固一徹の夫。
「お母さん、温泉でも入りながら一緒に作戦考えて~。お願い、ね?」
娘の頼みで、旅行という名の作戦会議に出たのだった。
滞在先に娘が選んでくれたのは、茶道を嗜む私がずっと憧れていた宿。
――作戦会議にしては贅沢な旅になりそう。少しうきうきしてくる。

42,000坪の広大な敷地は、まるでひとつの都のようになっていて、
3,000坪の雅な庭園を中心に建てられた離れは、わずか40棟。
もともと旧三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の長男の別邸だった建物もあり、
どの離れも趣きがあって、古きよき時代の香りが漂ってくるよう。

京都の庭師・小川治兵衛の手による庭園には、
こんもりと茂る緑、苔むした岩々、さらさらと流れる小川が絶妙に配置されていて、
まるで日本の自然そのものが、この庭にぎゅっとつまっているみたい。
あんまり美しいので、お部屋に案内してもらって荷解きもほどほどに
広縁からそのまま庭へと歩み出る。
山間の土地に来たせいか、街より空気が濃厚に感じられて、何度も丁寧に深呼吸。
心をこめてお手入れされているということがよくわかる庭園にいると、
気持ちが解きほぐされていくような、やすらいだ感覚に包まれる。
幸せな空気に満ちたこの場所は、さしずめ“日本のリゾート”といったところだろうか。
娘はというと、自慢のカメラをあちこちで構えては、悦に入っている。

派手ではないけど、山海の滋味をきっちりと生かした懐石料理に感激し、
お風呂では時間を気にせずに湯浴みを楽しみ、部屋に戻ると、夜もふけつつある時間。
多くの人をもてなしてきた空間には、目には見えない温かい空気が満ちている。
いつも軽口ばかりの親子の会話が、いつもよりしみじみと感じられるのは
気のせいかしら?と思ったそのとき、神妙な顔をした娘が私に言う。

「お母さん、今までありがとうね。うちみたいに、楽しい家庭をつくるから」

いつも笑ってばかりのわが家だからこそ
なかなか言い出せなかったかしこまったひと言が、
この宿がもつ歴史の魔法によって、解き放たれる――。

「妻は、常に笑顔であるべし」
私が実母から嫁入りのときに言われた言葉。
とうとう娘に引き継ぐ時が来たみたい。

長い時間を越えて、ずっと受け継がれてきたものには、
人々の想いと愛着が加わり、人を幸せにする力がある。
それは歴史を重ねてきたこの宿や庭園だけじゃなくて、言葉にも宿る、不思議な力だ。
祖母から母、母から私へと引き継がれている、わが家の“家訓”もきっと、
ずっと未来のこどもたちを幸せにしてくれるに違いない。

「……聞いてる?」
しばらく黙ってしまった私に、しんみりするのはまだ早いよ!と明るく振舞う娘。
そうそう、そのやさしい笑顔があれば大丈夫。
夫には、私の太鼓判付きということで安心してもらうことにして、
今夜は母娘水入らずで過ごす、語らいのひと時になりそうだ。
――こちらこそ、素敵な子に育ってくれて、ありがとうね。

ゆらゆらと波打つ、味のあるガラス、3mはある巨大岩の靴脱ぎ石……。時代の旅人になって巡る、雅の宿の思い出。>TRAVEL GUIDE
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